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3月5日 オノマトペ って知っていますか?GIGAZINEの2月29日付で、「オノマトペ」の話が出ていたのをご覧になった方もいらっしゃるかな?http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080229_onomatopedia/
IPAが未踏ソフトウェア創造事業というプロジェクトを実施しており、2007年度第Ⅱ期 に採択された案件のひとつが、お茶の水女子大の皆さんが開発した「日本語話者と学習者を巻き込むFolksonomy型オノマトペ用例辞典の開発」、大川恵子PMが担当された本件...私もサブPMとして関わりを持ち、先週の土曜日に成果発表会が開催され参加してきました。 http://www.ipa.go.jp/jinzai/esp/2007mito2/gaiyou/3-13.html 「オノマトペディア」と、「オノマトぺた!、未公開」の話、詳細はこちらに...
日本語処理や日本語解析に関して、こんなアプローチもあるんだ...とワクワクしませんか?
では、ふるかわでした 10月30日 YouTubeの創業者による講義に出席せりYouTubeの創業者の一人Steve Chen氏が来日し、慶應義塾大学でも講義をして頂きました。レクチャの後に学生の皆さんからの質問、私も用意したいくつかの質問に真摯に答えて頂いて高感度とてもアップであります。 私としては、是非スティーブ・チェン氏に特に聞いてみたかった質問は「グーグルに会社を売却すること自体が目的だったのか?それともそれは大きな目標を実現するに必要な一ステップにすぎなかったのか?」「グーグルの傘下に入ることによって得たもの、失ったものは何か?」などなどでした。 以前の本ブログで「最近の若い子たちの発想は...んっ?」というエントリをしたときに、何人かのコメントやトラックバックで「お金持ちになるという目標のどこが悪いんだ」とか「若い子の芽を摘んでいるのは、貴方たち年寄りだ」とまで語られているのを知り、少し考え込んでいたのでした。自分自身の記述で「キレた」と書いたので、若い子をいじめてどうするんだ、というご批判を頂戴したのかもしれないけれど、その時のニュアンスはけっして若い子を叱責しているような雰囲気ではなく、「若い人なんだから、もっと夢のあることを考えようよ、お金もうけは結果として手にすれば嬉しいことだろうけれど、それを目的にするのはカッチョ悪いと思うんだけれどなぁ...」という感じなのでした。スティーブ・チェン氏の返答が、「そうだよ、私はグーグルに会社を高く買ってもらって、人生アガリと考えているんだ。」とか「お金持ちになったので、もう他にやること無いしぃ」なんて答えが返ってきたらどうしょう、と思っていたのだけれど....というのも以下の、インタビューでは、売却が決まってかなりお気楽モードでチャラチャラしているように見えて....ついでに、「あのインタビューってどのような気持ちで受けたものなの?」と聞いてみたかったのでした。 グーグルに売却が決まった直後のインタビュー 結果として、彼から帰ってきた言葉のいくつかをご紹介すると.... 古川:「売却直後のインタビュービデオを見ていると、ちょっと軽いノリでコメントしているように見えるけれど、実際にはどんな雰囲気だったの?」 いくつかのQ&Aの最中に、彼が度々口に出した、自分の母親でも使える環境を、という言葉は、ビルゲイツのインタビューにも良くでてきたフレーズなので....私は「あれこれ言う人はいるけれど、基本的な動機は極めて人間臭い、純心な動機がきっかけになっているのだな」と感じいりました。そして、YouTubeを始める前から、PayPalやeBayの関連ソフトを一緒に開発していたメンバーと一緒に始めたYouTubeのスタッフたちに対する同僚に対する思いが言葉の端々から伝わってきて好青年って感じ(まだ、29歳だからねぇ)... 会社をスタートアップして2年で数千億円の価値でグーグルに売却し、チェン氏本人も810億円相当のグーグルの株主になるという快挙を成し遂げたのだけど、とてもホノボノとした良いお兄さんという感じ....それでも、著作権に対する取組み、日本の放送事業者と期待する関係、英BBCや米CNNとの提携、透かし技術や、今後の著作権管理技術などに対するコメントはとても真面目なものでありました。
古川:「グーグルに売却前と後と何が変わった?」 最後に、日本の企業や大学とも何か連携ができると良いねぇ、そういえば日本には顔を認識してフォーカスを合わせるだけでなく、カメラに向かって微笑むとそれを検知してシャッターを押すデジカメもあるよ、そんな映像検出機能を今後ビデオ作品の検索に使うなんてのも面白いかもねぇ....なんて話が弾んでおりました。 青山で開催されたパーティ 日本のファンとの会話もアップされていました スティーブ・チェン氏のサイト 今回の来日を取り上げた記事はこちら 日本における著作権に関する取り扱いとYouTubeの対応 米国にてYouTube創業者二人にインタビュー では、ふるかわでした
8月5日 SIGGRAPH 2007開催中、うぅっ、行きたい!!!この25年間、未来を先導する展示会やイベントは1970年代後半のWest Coast Computer Fair、NCC(National Computer Conference), 1980年代初頭のCOMDEX, 1990年代にはDEMO, Agenda、民生機器の世界最大規模の展示会であるCES(Consumer Electronics Show), 放送機器展NAB Showなどなど様々なイベント/カンファレンスに参加してきました。 いくつかのコンファレンスが衰退して勢いを失う中で、現在においてもホットな話題と最新の技術・サービスが発表され、卓越したアイディアやコンテンツに驚愕するのは、SIGGRAPHだと思います。SIGGRAPHは、Special Interest Group on Computer GRAPHicsの略、Association for Computing Machinery(ACM)というコンピュータ学会のコンピュータ・グラフィックス分科会という位置づけであります。マイクロソフト在職中から、SIGGRAPHの開催時期には休暇を取って私費で毎年訪問することを楽しみにしていました。SIGGRAPHへの訪問は、私にとって1年分の仕事のストレスを発散し、次の1年のために充電をする貴重な機会であり、将来の技術展望やコンテンツ/サービスの未来を予測する重要なヒントを授かる場所なのでした。 昨年のSIGGRAPH2006はボストンで開催され、東京大学の五十嵐建夫助教授が最優秀新人研究者賞を受賞しており、日本の大学からも沢山の学生さん、教授のみなさん、日本のアーティストの方々が多数参加されていました。 そのSIGGRAPH2007が今年はサンディエゴで開催されています。ロスアンジェルスの南にロングビーチ、コスタメサ、ラグナニゲル、ラホヤとドライブするとメキシコのすぐ手前がサンディエゴ....SeaWorldとサンディエゴZooで有名だけど、鉄道模型の博物館も素晴らしい規模のレイアウトが展示されています。 今年のSIGGRAPH2007では、例年通り5日間のコンファレンスが8月5日から開催され、ブース展示とデモが8月7日より3日間オープンされます。アートギャラリーも8月5日から展示...Art Gallery Video Preview (Windows Media)もご覧いただけます。トーチカ(ナガタタケシさん、モンノカヅエさん)によるPIKAPIKA2007も展示予定。 アニメーション部門の招待アーティスト林俊作さんは、1992年生まれの中学3年生15歳、13歳の時から数々の賞を受賞されていましたが、世界にデビュー!デジタルパフォーマンスの領域では、メディアアーティストの川島 高 (かわしま たかし)さんはTakashi's Seasonsを展示、静岡大学の的場ひろしさんによるグループ、文化庁メディア芸術祭の受賞作品、京都大学教授の土佐尚子さんのHitch-Haiku、慶應義塾大学の教授、稲蔭正彦さん(稲蔭研究室のプロジェクト...私も参画している2008年新設大学院メディアデザイン研究科のトップに就任されます。)の作品Flow....展示などなど。SONYもCell Computing のパワーをXRDプロジェクタの4K映像でデモ展示するとか... ブース展示では、最新のコンピュータ技術、CG、映像編集、ディスプレイ技術、入出力装置、ソフトウェアからサービス、コンテンツ・ライブラリ、圧縮技術、などのワクワクするテクノロジーを見て、触れることができます。今年も訪問する機会があれば...と出展企業・研究所一覧からマークしていたものの一部を以下にリストアップします; 慶應義塾SFC奥出研究室の橋本翔さん、シアトルからサンディエゴに移動したみたいですね、引き続きレポートしてくださいね!! ぐうっ、シアトルとサンディエゴだったら面白い場所も、おいしいレストランも沢山知っているのに、残念.... 稲蔭先生は、SIGGRAPHのボードメンバーでもあり...日本でSIGGRAPH ASIAを開催するべく、今回交渉中...結果の発表を楽しみにしています。 では、ふるかわでした 6月14日 幕張で開催されているINTEROP2007にてスピーチ昨日はNTEROP2007というコンファレンスにて久しぶりに基調講演を45分、そして午後には2時間半のワークショップにて合計3時間ちょっとの間しゃべり通しの1日でした。午前中の基調講演の内容が速報のスタイルでいくつかの記事として既にアップされておりなした。私は私で原稿も無しで3時間も、まぁ良く喋ったものだと思いますが、その雑駁な話をとても良くマトメて頂き記事にして頂きました、ありがとうございます。 http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20070613/274745/ 私のスピーチに出てくるBBC(英国放送協会)の発言とは、以下のブログの
6月14日追記: 昨日の基調講演は、1421名の方に聴講頂いたそうです。 幕張まで足を運んで頂いた方、改めてありがとうございます。 上記の記事の中で、 > タカラとNTT西日本が共同開発した との文章を発見しましたが、このTCP/IPスタックを開発したのは、”NTTの技術者ではなく” 株式会社ユビキタス(http://www.ubiquitous.co.jp/i )のJay鈴木さんで....私のブログのエントリ(ビルゲイツ、自分の限界を知ってプログラムを書かなくなったわけ)の中で紹介されているJayこと鈴木仁志さん(MSXやTandyM100などのメインプログラマ)であります。このユビキタスという会社....他にも何をやっているのか調べてみると面白いことが盛り沢山!!! 共同経営者の中山さんは、オラクルのネットワーク・コンピュータ、NC、(今でもCitiBankの支店で為替情報を毎日表示しているみたいだけれど)...ラリーエリソンが500台のNC端末を繋いでデモをした時の仕掛け人でもあったりして...歴史に残るプログラム開発に関わった人たちが、今の時代にも頑張っていて....次世代に向けてさらなるチャレンジをしているのを見るのは、嬉しいことです。)
INTEROP 2007に関する情報はこちらに では、ふるかわでした 12月20日 コンピュータ用語とその翻訳のお話翻訳とは、本当に難しいもので...的確な日本語訳が無いから代わりに日本語でどのように表記すべきか、それともカタカナですませようか?といつも悩んできたものです。 今日は、閑話休題にて、こんなお話を... MS-DOS開発当初は日本語化に際して、日本IBM殿と緊密な関係を保ち、表示されるメッセージや用語の統一を過去のIBMの社内用語に合わせるのか、それともPC用に新たに定義するのか...白熱した議論が繰り返されました。 IBMのメインフレームの世界では、フロッピーディスク(メディア)のことを、ディスケットと呼ぶのですが、全てのマニュアル表記に「ディスケットを入れてください」と書くと、フロッピーも見たことが無い人が、ディスクドライブにビスケットでも突っ込まれたら大変...なわけ無いと思うでしょ? ...でも、それに近い事例はいくらでもあるのがこの世界ですから...結局、ディスケット(IBMの登録商標)ではなく、フロッピーという呼称に統一するまで、結構な交渉が必要であったのが...「ディレクトリ」と呼ぶか「登録簿」と呼ぶか...本件に関しては、一歩も譲らないとIBM側は主張してこれまた並行線....画面に「登録簿」って表示されて、その下に登録簿名称が枝の下にあり、その下にファイルがあるってのは、如何なものか...とこれまた大変な交渉となりました。 ある日のこと...英語表記の「Abort, Retry, Ignore ?」という表示に...IBM殿から提案された翻訳候補は...「止めますか、もう一度しますか、無理やりしますか?」という文言でありまして...私たちの返答は....「あのう、”無理やりしますか”は、ある種の犯罪を誘発するようで..表現として如何なものでしょうか.....」と交渉して...他の穏便な表現に結局なったのでありました。結果は良く覚えていないなぁ..「中断、再試行、無視?」とかにしたのだったかな???最近MS-DOSのエラーメッセージを見ることも無くなったからなぁ...というわけで、コンピュータ用語の言葉の選択は永遠の課題なのであります。 では、ふるかわでした そうそう、もうひとつ可愛いお話、その2.... 「パソコンが動かないんですけれど...」「では、電源を入れて起動したら、画面に何が表示されるか教えてください」とお話したところ、ご本人..電源を入れてからドアの影に隠れて部屋を覗いている風であります(電話の会話から)...返ってきた言葉は...「ウチのパソコン、まだ机の上で座ったままで、起動する気配はありません!!」とのお返事....ロボットのように立ち上がるとでも思ったのでしょうねぇ..ということは、”起動する”って言葉も、先に用語の説明をするなり、もっと優しい言葉に置き換えなければ...と反省した次第...最近のロボットブームに乗って、本当に起動して歩くパソコンとかできちゃったりしたら、話はさらにややこしくなるのかな? ではでは、ふるかわでした 10月26日 北京にて、その2昨日(10月24日)は、北京の大学生を対象としたイベント「Computing in the 21st Ceentury」の第8回目が清華大学総合体育館で開催されました。清華大学の学生だけではなく近隣の北京大学、北京航空航天大学などの3000名を超える学生とアジア各国から集った大学教授、関係者が一同に会して、このアジェンダに沿った講義を受講しました。 コンピュータ・サイエンスを目指す学生にとって、最先端の多岐に渡る講義を一日で全て聴講する機会とあって会場はある種の熱気に包まれていたのでありました。チューリング賞((コンピュータサイエンスの世界でノーベル賞に匹敵する賞)を受賞した教授が3人も一同に介してそれぞれ基調講演をするなど普通のカンファレンスなら有り得ない構成で...基調講演が朝から8本連続...という密度の高いものでありました。
2000年にチューリング賞を受賞している清華大学YAO教授の講義(写真下左)や、MITのEric GRIMSON氏(写真:中)による最先端3Dグラフィックスを利用した医療データの可視化と手術支援システムなど最先端の講義を受講できる機会は、参加した大学生にとって大きな刺激となったことでしょう。
MSR Asia 所長のHarry SHUM氏より、「Research 2.0」...Web2.0の動向にからめた、新しい研究の使命...Research 2.0のお話... 1984年チューリング賞受賞のNiklaus WIRTH (Swiss Federal Institute of Technology)による、「A Brief History of Software Engineering」 スタンフォード大学のPat HANRAHAN氏による、「The Big Idea in Computer Graphics 」 メリンダ&ゲイツ財団の理事でワシントン大学の教授でもある、Ed LAZOWSKA氏より、「コンピュータ・サイエンスの過去・現在・未来」と題した講義へと続きました。 このイベントは、中国で開催されるのは今年で8年目、今回のイベントは韓国、台湾でも開催されコンピュータ・サイエンスを専攻する沢山の大学生や大学院生がこれらの講義を受講しています。日本からも大学教授や、研究者が参加はしているのですが...是非とも、この手のイベントを日本でも学生のために開催して頂きたいと思います。 イベントの終了後は、マイクロソフト日本法人の大学連携を担当されるグループの主催で夕食会、日本から参加した各大学の教授、研究者の皆さんと、上海老飯店にて、まさにシーズンの上海蟹を満喫しました。上海老飯店は130年前に上海料理を世に知らしめた老舗だそうで、その北京支店だそうです。このレストランの支店が2008年には、名古屋にオープンするとか... その後は后海地区に繰り出して、LOTUS BLUE Bar にて2次会となりました。 マイクロソフトによる日本の各大学との連携は、今回のようなイベントへのご招待に留まらず、MSRへの研究員、インターンの受入れ、Windowsソースコードの開示、共同研究など地道な努力を続けています。
追記:2006年11月23日には、マイクロソフト産学連携研究機構 第 2 回シンポジウムが京都で開催されるそうです。ご興味のある方は是非エントリをどうぞ... では、ふるかわでした P.S. 10月16日にこんなモノも発表していたんですね! 6月20日 アラン・ケイは、まだ元気!!!「アラン・ケイが描く、パソコンの未来像(前編)」という浅見編集長のインタビュー記事が日経BP社IT Proのサイトにアップされています。 http://itpro.nikkeibp.co.jp/a/it/alacarte/interview0615/alan_1.shtml
アラン・ケイ氏はゼロックスのパロアルト研究所で数々の研究に従事し、「The Personal Computer」という論文の中でパーソナル・コンピュータの基本的な概念と必須の要素として「1Mピクセルのビットマップ・ディスプレィ、マウス・デバイス、1Mbpsのネットワーク接続、オブジェクト指向の言語、グラフィカル・ユーザーインターフェイス」などの実装を提唱されました。
私自身も1977年11月に、その論文を「日経サイエンスの翻訳記事」で拝読し、“よし、この業界で生きて行こう。その要素のひとつひとつを自分で勉強して、世の中に広めていこう!!”と決意し、米国に武者修行に出発するキッカケとなったのです。
そのアラン・ケイ氏が日経ITProの浅見編集長のインタビューの中で興味深い発言をされています。浅見さんは、日経BPのシリコンバレーオフィス勤務、日経エレクトロニクスの編集長を経験して、素晴らしいインタビューを沢山実現してきた方ですが..さらに、「座布団1枚!!」という雰囲気の記事に仕上がっていますね。(ポートレートの写真もいつも素晴らしい味を出しています。)是非、ご覧ください。
我々が虚しい競争に明け暮れて、コンピュータ資源を無駄に消費してきたことに対する反省と...パーソナル・コンピュータを実現するために、まだまだやらなければならないことも沢山あるし、まだ大きな可能性のある分野なんだという気分にさせてくれます。
自分より年齢でいえば大先輩のアラン・ケイ氏が、さらなるチャレンジを忘れていないのなら、私ももうちょっと頑張らなければ、と勇気づけられるような記事でありました。
後編に期待しています。>浅見さん
では、ふるかわでした 5月16日 このセンスに脱帽!まとまった原稿をアップしようと思っているのです、ままなりませぬ... 度々ご訪問されている方に、今日はこんなサイトをご紹介して失礼いたします。 「PCとMacの対比」をこのように展開されるとは、脱帽! http://www.apple.com/getamac/ads/ 「操作性の革新」って、こんなことでも可能だったかと、脱帽! http://www.nintendo.co.jp/n10/e3_2006/wii/movie_concept.html Wiiの全貌はこちらから http://www.nintendo.co.jp/n10/e3_2006/ では、ふるかわでした 11月15日 ジョブズの右腕として、世界初のエバンジェリストと呼ばれた男コンピュータの業界ではエバンジェリスト(伝道師)という言葉がいつの間にか定着しています。その定義は、単に商品としてのコンピュータを販売・マーケティングするのではなく、自社もしくは自分の信じる技術、製品、その背景にある思想やライフスタイルを啓発、啓蒙する活動に従事する人たちのこどをエバンジェリストと呼ぶようになりました。最初にその言葉を用いたのは、アップルのMac(マッキントッシュ)をスティーブ・ジョブズと一緒に抱えてひとりずつ口説いて廻ったマイク・ミューレィという人の活動が原点であります。
彼は、先日のブログでご紹介したiConという書籍の中では、「マイク・マレー」と表現されていますが、日常会話の中で私が耳にした名前の発音は「マレー」ではなく「ミューレィ」に近かったと記憶しています(Mike Murrayとつづります)。というのも、彼はマイクロソフト本社に1989年から1999年まで人事担当副社長として社員3万人規模の会社に成長する過程の採用、人事政策を担当した立役者であったからです。マイクロソフトの副社長を対象にした合宿に私も参加したある日、アップルでスティーブ・ジョブズと一緒に働いた日々の事をマイク・ミューレィは話してくれました。 彼は、アップル本社でマッキントッシュのマーケティングを担当し、かの有名な「1984」というスーパーボウルの時に放映されたテレビ広告のしかけ人でした。書籍iConにも出てくるストーリーですが、もう既に広告枠に対する事前予約と支払いを済ませた後に当時のアップル役員全員にプレゼンテーションとラッシュ版の事前レビューを行ったところ、自分の人生で一度も味わったことのない罵声を浴びせられて、ボロクソに言われたという話が出できます。マッキントッシュのデビュー時の有名な話でありますが、それ以外に当時有名であったストーリーはマッキントッシュの持てる魅力を一人でも多くの人に理解してもらおうと、マイク・ミューレィは試作品のMacを抱えて時にはスティーブ・ジョブズと一緒に全国のセレブを訪問して廻ったそうです。その訪問先は、ある時はマドンナであり、ある時はローリング・ストーンズのミック・ジャガーであり、ジャーナリスト、政治家、テレビの司会者、各種業界の重鎮たちにMacの魅力を発表前に少しでも理解してもらおうと全国で啓蒙の旅に出たのでした。その活動を宗教の福音伝道活動になぞらえて、エバンジェリズムと定義し、その伝道師をエバンジェリストと呼ぶようになっただそうです。長身のジョブズ殿に比べて背丈もあまり高くないマイクはMacの魅力を説くために東へ西に奔走していたのだそうです。マイクロソフトの合宿で語られた彼の逸話の中で「みんな、エバンジェリストに必須の要素は何だと思う?」という質問に「信心だろう」「説得力に違いない」「強靭な精神と肉体だ」と色々回答の候補が挙がったのだけど、マイクの答えは「強靭な靴が必要なんだ、ガッシリした靴が」..と皆は「ああ、確かにエバンジェリストは歩いて、歩いて一軒ずつ訪問するからねぇ」、マイクは「Non!、強靭な靴が必要な理由はね..右手にMac左手に資料を持って相手の自宅やオフィスに行くだろう。そうすると、まずドアが開いて相手は“何のようだ?”とドアを少し開けるわけだ、時にはドアチェーンを外さずに少しだけドアが開くこともある。その時に、私はアップルから来ました、貴方はMacをご存知ですか?と聞くわけだが、まず最初の反応は“何の押し売りだ? それとも新興宗教の寄付活動か?興味ないから帰ってくれという反応が100%返ってくるのさ。当然相手はドアをバシャンっ、と閉めるなそこで”そんなこと、おっしゃらずに少しだけでもお話を“と言おうにも両手はMacと資料で塞がっているわけさ。それにウッカリ手でもドアに挟まれたらケガをするしね…その時必要な機転はすかさずドアに足を挟んでドアが閉まらないように靴を滑り込ませる。その時に強靭な靴でないと挟まれてケガをする、だからガッシリした靴でないとダメなんだ。」そんな笑い話をしながら、彼はミック・ジャガーに会いに行った時の話などをしてくれました。お金をかけてテレビ広告や雑誌・新聞の広告を展開するだけではなく、影響力のあるユーザーやソフトウェア開発者にその思想を一人ひとり説いて廻るエバンジェリストの原点とも言える活動でした。その後エバンジェリストはIT業界の中でも一般的な呼称となり、いくつかの企業では職種・タイトルにすらなったのです。 (IBMの例:http://www-06.ibm.com/jp/developerworks/evangelist/)
昨今のアップルにもその思想は脈々と受け継がれ、iTunesやiPodの発表に際して支持を表明しているU2のボノや多くのミュージッシャンとの関係は、Macデビュー当時のエバンジェリズムがDNAとして現在も機能している証なのでしょう。 書籍iConの中では、マイク・ミューレィはMacのマーケティングの立役者として活動を残しただけではなく、スティーブ・ジョブズがアップル社内で四面楚歌に合い、組織と権限だけなくオフィスの場所まで冷遇された時に最後まで、ジョブズと付き合った男として語られ、その後マイクロソフトに転職したというストーリーで終わっています。 マイク・ミューレィはマイクロソフトに来て当然そのマーケティングの手腕を買われて、Winodowsや会社の広報・PRをするものだと期待されていたのでしょう。しかし、彼が担当した仕事は人事本部長という、数千人の規模を3万人(彼の退職した1999年当時の社員数、現在は6万人)にする時の採用活動、社内人事規定、人事考課、査定給与システム、社内教育トレーニング・プログラム、社会貢献・フィランソロフィーからはたまた社員クラブに対する援助、福利厚生といった分野のプロフェショナルな仕事でした。その当時1989年から10年間、マイクロソフトは急激に人も増えどのような人材を採用するか、社内の中でどのような人材を育てるかは大きなチャレンジでありました。まだ小さな規模の時には、ビルゲイツも私も直接面接をし、社内の意思疎通も顔と顔を着き併せて直接コミュニケーションをし、人に対する評価、人の配置や人事考課は直接担当するマネージャの個性に全て任せてしまうとう脈略の無い、一貫性の無いものになりがちでした。マイク・ミューレィはジョブズという強烈な個性の基にチームを引っ張る、他の部署と敵対する、アップルの内部事情を目の当たりした人間でありました。ジョブズ殿の卓越したリーダシップを敬愛しながらも、チームの同僚に対する給与、ストック・オプションの付与、仕事の成果に対する名声を誰のものにするか、どのように報奨が与えられるかなどがジョブズの個性と一存に全て委ねられてしまった結果、社内の不公平感や摩擦軋轢を沢山生み、退職者や解雇を生んでしまったという当時のアップル内部事情を自ら体験した人間であったのです。 そこで、マイク・ミューレィは採用にあたっての公平さを徹底し、入社後の人事考課昇給賞与、ストックオプションなどをボスの一存で決定するのでは無く、全社の人事システムとして定義、啓蒙、実施したのでありました。マイクロソフトの強みが、ビルゲイツの個性やカリスマ性、バルマーの牽引力やリーダーシップで語られることが多いのですが、同時に一つの強みとして、採用、人事システム、教育システム、報償制度、社会貢献活動から出張旅費規程まで、システムがカッチリ規定され多くの社員にとってフェアかつ自分は会社に十分な期待を持って迎え入れられ、その成果に対する報奨を不公平感無く受け取っているという状況を作り出したのは、一重にマイク・ミューレィの手腕によるものでした。アップルそれもジョブズの右腕と呼ばれる人間がジョブズの基を去りいつしか敵対する企業で罵り合う、相手を傷つけるまで戦った人も何人もいます。そんな中で、ジョブズの傍で色々なことを学んだマイク・ミューレィはマイクロソフトに入社後、アップルと対決するためではなく自分を活かせる場所として人事のトップで君臨したことが、現在のマイクロソフトの大きな支柱にもなっているのでした。 その後、マイク・ミューレィはマイクロソフトを退社後「世界の人口の2/3は一日2ドル以下の収入で飢えに苦しんでいる、そのような人たちを救おう」という活動に身を投じています。 http://www.unitus.com/ http://www.unitus.com/aboutus_leadershipteam.asp#bod http://channel9.msdn.com/Showpost.aspx?postid=125663 http://www.synergos.org/globalgivingmatters/features/0302murray.htm http://blog.unitus.com/
書籍の中では、ジョブズとアップルで最期まで付き合った男、その後マイクロソフトに転職という記述で終わっていますが..その先にも、またひとつの物語と素敵な人生があったというお話でした。 では、ふるかわでした P.S. 実はジェフ・レイクスも当時(といっても1981年)アップルから転職してきた一人で、現在はマイクロソフト・ビジネス部門の社長をしています。 書籍に出てくるPixerのアルビー・レイ・スミスもマイクロソフトの研究員です。
11月14日 iCon読了、ジョブズ殿の裏話「iCon」、今日の昼ごろ読み終えました。感慨深しであります。あの瞬間にこんなことがあったのね納得する箇所も多く、同時並行のドラマとしてアスキーやマイクロソフトの歴史とオーバーラップさせると面白いなぁ、なんて考えていました。 Appleの名前を最初に見つけたのは、この広告でした。 http://www.macmothership.com/gallery/MiscAds2/apple1b.gif 私の訪問していた、ロスアンジェルスにはApple Iを取り扱っている販売店は無く、数年後初めて訪れたパロアルトのBYTESHOPでApple Iの現物を拝んだことがあります。 このカタログを見ると、コンピュータLabを思い出します。当時のAppleII(48Kb)で78万円なんて価格が付いていました。 http://www.macmothership.com/gallery/MiscAds2/1977IntroAppleII1.jpg 初めてAppleIIの回路基盤を見た時に何故こんな設計になっているのか不思議だったことが2つありました。ひとつは、システムクロックを生成しているクリスタルの場所とCPU6502の場所が20x30cmくらいの基盤の対角線上にあり、意味も無く延々とシステムクロックがL字型に基盤を引っ張りまわされています。「iCon」を読んでウオズニアックのハードウェア設計に対して、回路の全く読めないジョブズがデザインにこだわり、全ての配線は直線にしてくれって要求を出したことに対する意趣返しだったのね..と遂に謎が解けました。2つ目の謎は随分前に気がついたのだけど、AppleIIにシステムクロックは1MHzではなく、14.318MHzという変な数字のクロックを分周して1.022727MHzというケッタイなクロック周波数でCPU6502は動作していました。ウォズニアックは、14.318MHZというクロックは、カラーテレビのバースト波基準周波数という全てのカラーテレビが色表現をしている基準クロック、3.579545MHzの4倍=14.318MHzを使うことによってコンピュータ内部のCPUクロックと位相の合った公約数である1.022727MHzを使うことによってカラーTVの色ずれや縞模様のモアレ現象を回避していたのでした…AppleIIのデザイン恐るべしと、意匠デザインではなく、その回路構成に私はビックリしたのものです。(ダイナミックRAMのリフレッシュ回路なんて、凄いんですよ) Macのデビュー時のカタログを見つけました、ビルゲイツの若いこと… http://www.macmothership.com/gallery/Newsweek/p015.jpg 1982年のある日、アスキーがあった南青山のハイトリオというマンションで、スティーブ・ジョブズに遭遇したことがあります。西和彦さんが、「コイツがジョブズやねん」と連れてきて..その当時、既にApple Lisaを使い倒してデザイン的には素晴らしいけれど、添付されていたアプリケーションはたいしたことないなと思っていた我々は中島聡さんが創った「CANDY」というパーソナルCADソフトをスティーブ・ジョブズに見せたのです。我々は既にLISAに添付されているDRAWingソフトを見て使っているけれど、CANDYの方が格段に優れていて、ベジェー曲線の生成や、アンカーポイントを使った編集、ズーム機能に、マルチ・レイヤ編集なんてのをデモしたのでした。我々の「LISAもデザイン的には素晴らしいけれど、アプリはたいしたことないねぇ」なんて軽はずみな発言にうなずいていたジョブズ殿、「そうだろ、そうだろ」って顔をしていたのは、LISAに対抗した海賊チームとしてMacの部隊のオーナーでLISAに対抗する立場だったからだったのね…ということも、「iCon」を読んで納得..その後1年半後にMacDrawが出た時に、我々(ASCIIラボラトリーズという開発集団)は、なーんだジョブズ君「アイデイアいただき」という手法はゼロックスの研究所(PARC)だけではなく、我々(正確には、中島聡さん)からも「いただき」しちゃっているじゃないと思ったのでした。別にどちらがパクッたとかいうシリアスな話ではなく、当時は業界の全ての人たちがお互いに刺激を受けて影響を受けたり、それを上回るものを創ろうという心意気でいたってことです。そして、そのループの中に日本人の天才プログラマーたちも影響を受けるだけでなく影響を与える場があったのだなぁ、と思い返すのでした。 スティーブ・ジョブズと直接言葉を交わしたのは、その時1回きりだったのですが、日本の業界の中でジョブズ殿とトコトン付き合ったキヤノンの方から聞いた話…「NeXTの発表会を幕張のMKホールでやった時のこと、キヤノンさんの計らいでステージ上に高さ3mはありそうな生花がアレンジされていたそうです。それを生けたのは、日本の国宝級の有名な生け花の大家だったそうなのです。リハーサルの時それを見たジョブズ殿、いきなり通訳を呼び寄せ「この醜悪な犬のクソをどけろ」と訳して伝えろ、とのこと..慌てふためくキヤノンの担当者と通訳さんは、「何もそこまで言わなくても生け花の師匠にはお帰り頂いて壇上から片付けるから」と言ったら、ますます逆上して「ちゃんと通訳して、コイツに犬のクソを眼の前からどけろと伝えないのならお前こそ通訳をクビだ!!」とい話になったとか…結局、チャンと通訳して生け花の先生は真っ赤な顔をして帰っていったのだそうです…そんな話も、ある種の誇張が入っているのかなと思っていたのですが..「iCon」を読んだらそんな話の連続にビックリでした。 本にも出てくるように、昨今のジョブズ殿すっかり丸くなったのかと思うのですが彼流の美学の追及は今も変わらないようです。iPodの背中のステンレスを全数、燕三条の「磨き屋さんシンジケートでひとつずつ手で磨いている」という逸話も「ほんまかいな?」と思っていたのですが…追先日、前刀さんとご一緒した時教えてもらった逸話で..アップルストア銀座がオープンする数日前にそのインテリアやデザインを自分の眼でチェックしていたジョブズ殿…ご満悦だったのに、ある場所で立ち止まって、「違う、違うぅ、ここはやり直してくれ!!」と変更要求がオープン直前にあったのですって..それは、ドアのノブや引き出しの取っ手にステンレスのヘアライン仕上げ(細かい傷を一方向に付けて、半つや消しに仕上げた金具)を見て、ある金具だけがヘアラインの流れている傷の方向が違ったのだそうです。「あの金具を、オープン前に取り替えてくれ」、ってことになってアップルストア銀座のオープン直前に大変な騒ぎになったとこか..相変わらず美学の追求とコダワリは変わらないみたいですねぇ..それに付き合ってなおかつ信頼をかっている前刀社長、ご立派!! では、ふるかわでした 11月8日 アップルと私私がアップルに関する話をしたりMacやiPodの話をすると、「古川さんは実は隠れMacファンだったのでしょ?」とか「マイクロソフトを辞めてから、Mac使い始めたのですか?」はたまた「MacフリークがバレてMSを首になったのではないか?」とまで色々なことを直接・間接的に言ってくれる人がいます。思わず笑ってしまうケースは、「私はアップルを愛しているので、マイクロソフトの手先である貴方が嫌いです。」とわざわざ私に近づいてそれだけ言い捨てて去って行く人に何人も遭遇しました。こういうステレオタイプの人にマイクロソフトが私がアップルの成功を願ってなにを提供してきたかを一度まとめてお話しておきましょう。
私のスタンスは、良いものは良いとして自分も使う、人にも勧めるという性格ですから、アップルの提供する世界と無縁であったことは一度もなく、むしろMacの文化を広めるために人並み以上の貢献をしてきたのではないかとすら思います。それはマイクロソフトのスタンスも同様で、Mac以前のAppleIIの時代に遡ってマイクロソフトはアップル向けの数々の製品を出してきました。まず、AppleIIに標準搭載された6KROM版BASICは(注:Dr.Spockさまのコメントにより修正させていただきます。6K ROM版整数BASICはApple社によるもの、後に出荷された10Kb拡張浮動小数点BASICが)マイクロソフト製品でありました。マイクロソフトが最初に出したゲームソフト・タイトルはAppleII用の「オリンピック・デカメロン」(注:seiji-kさまのコメントにより修正させていただきます。デカスロン:10種競技が正しいタイトルです)というスポーツゲームでした。AppleII用に他社から出荷された世界初の表計算ソフトVisiCalcは大きな衝撃を持って市場に受け入れられましたが、その限界は英数文字が40文字x20行という画面サイズでした。その限界を打ち破るAppleII用の製品として、マイクロソフトから「AppleII Z80 Soft Card」という製品が出荷され、AppleIIのIOバスにZ80CPUと9つのDRAM(8本は16Kb増設用、本体の16KbRAMチップを1本抜き去りそこに16ピンフラットケーブルを刺す、抜いた1本のRAMチップはZ80カードに9本目のRAMとして挿入される)、80x25行のディスプレイを表示可能で、8ビットのOSであるCP/M80、Microsoft BASICが搭載されていました。 この結果8ビットのAppleIIを利用してFortranやCOBOLすら運用可能になったのです。そして80x25文字のディスプレイとCP/Mの環境を利用してdBaseIIなどのデータベースやMultiMateやWordStarなどのワープロソフトなども実行可能となりました。8ビットの時代にほぼ標準としての地位を固めたCP/M80を一番沢山単一機種のために出荷した会社は当時のマイクロソフトで、そのターゲットマシンはAppleIIでありました。 マッキントッシュのデビューに当たっては、スティーブ・ジョブスから試作機を供与されMacのデビュー時にアプリケーションを提供する1stパーティと呼ばれる第1陣のソフトウェア会社として3社(マイクロソフト、ロータス・デベロップメント、3社目はアシュトン・テートだったかピーチ・ツリーだったか)の社長とスティーブ・ジョブスが色違いの同じポロシャツを着てデビュー広告を飾ったものでした。マイクロソフトが最初に出したMac用ソフトウェアは、BASIC,Multiplan、そしてChartでありました。その後ExcelのデビューによってMacのカルチャーを100%活かした最初のアプリケーション・ソフトとした広く市場に認知され、Excelを使いたいためにMacを購入するという状況をも生んだのでありました。 私はその当時1984年から1986年まで、ある理由で没交渉となりマイクロソフト以外のソフトウェア・ビジネスを担当するというミッションを持っておりました。その頃㈱アスキーのソフトウェア開発本部という立場で、UNIXの日本語化、informix、CANDY、TeXなどのアプリケーション、そしてJust Systemの発掘などを手がけておりました。とりわけ、UNIXの日本語化はバークレィ版3.7および4.2BSDの時代の中心的な役割をUNIX市場で打ちたて、DECの漢字ULTRIXとして、そしてSONY殿のNeWSワークステーション上のUNIXは、アスキーがVAX用日本語化BSD版UNIXのマスターテープを提供し、当時SONYに勤めておられた手塚さんがそれを68K版に移植され市場にNeWS版UNIXとしてデビューを飾りました。当時VAX11/780版日本語化されたUNIXは、慶應大學、東大、東工大、松下の中央研究所、KDD研究所などに次々と納入され、その後の日本語化されたUNIXの基礎として幅広く採用されました。日本語化の努力はBSD版でソース提供されましたので、現在に至るまでその日本語化構造は脈々と生き続けているのではないかと想像しています。皆さん、ご存知のようにMacOSの中身は現在BSD版をベースにしたUNIXそのものですから…私はMacOSの中身として継承されているMacOS Xのある部分は私が20年前に開発に関わったものが今でも使われているのではないかと、自負するものです。その当時、私はプログラマーとしても開発のリーダーとしてもポンコツでしたので、実際の作業は当時アスキーの社員であった現在IIJの会長である深瀬弘恭氏を中心に、大野 俊治氏などが実際の開発作業に関わっておられました。私はそれを統括するソフトウエァ開発本部長で、開発と事業総責任者でありました。 1986年マイクロソフト㈱を創業した段階では、Mac関連のプロダクツはキヤノン販売㈱殿が日本での総代理権を持っておりましたが、日本でのアプリケーション提供と責任あるサポート体制を整えて1年以内にMac関連の取り扱いをマイクロソフト㈱で取り扱うことに移行しました。話は前後しますが、1986年初頭には、マイクロソフトの社長として私が採用される前後に日本のアップル・コンピュータ㈱の社長にならないかとの誘いがあり、アップル本社クーパチーノの人事担当者その他エクゼクティブと入社面接をしたことがあります。その時点では、マイクロソフトから完全に絶縁状態でアスキーとマイクロソフトの代理店解消プロセスをアスキーの立場から一山超えた私は、アップルの社長というお誘いにチョット心が動き話を進めておりました。私の要求は1点だけ、Macのプラットフォームをそのハード設計OS共に第三者にライセンスして、Macをアップルからだけではなく日本のメーカー(具体的にはSONY殿)を第一ターゲットにパートナー戦略の企画書を持って交渉にあたりました。私の夢は「アップルからクリーム色のMacをSONYから銀色のMacを出荷して、Windowsに対抗する」という企画だったのですが、あっさり撃沈。 当時はスティーブジョブスもアップルを去ってスカーリー社長の指揮下に、面倒なことを要求するヤツは要らない、とにかく売ることだけ考えろ、という雰囲気で話は立ち消えとなってしまいました。その数年後にアップルはMacの生産ライセンスをパイオニアなど数社に付与されるのですが、結果はおもわしくありませんでした。その頃、SONYでMSXの幕引きを担当されていたのが出井さんで、やはりアップル本社にMacを作らせて欲しいと交渉をされていたそうです。その後、出井さんがSONYの社長になられて以降のカジュアルな会話の中で出井さん曰く「古川さん、あの時点で貴方がアップルの社長をやっていてSONYがMacを提供していたら、今のVAIOシリーズの中身はMacだったのにねぇ」とお話をしたものです。その頃、現在アップル社長の前刀さんはSONYにお勤めだったそうです.. その後、時は過ぎ永年お付き合いのあった原田さんが社長となり、MacExpoなどの対談にもお声がかかるようになりました。1998年のiMacの記者発表はスティーブ・ジョブス氏の完全復帰であり、新生Macのデビューであり、原田さんの日本における代理店政策・マーケティング策の刷新など大きなパラダイムシフトとして位置づけられていました。その時点では、ジャーナリストや一般ユーザーの方の「アップル対マイクロソフトの対決の図式」は皆さんの頭に染み渡っており、私がiMacの発表会にゲストスピーカーとして壇上に上がった時にはドヨメキの声が聞こえたものでありました。ひょっとして「マイクロソフトの古川が消火器でも持ってiMacの発表会をブチ壊しにきたのではないか?」との声すら聞こえる中で、私は「iMacのデビューに関するお祝いの言葉と同時に、当時Windows版はOffice95を継続していたときに、次世代の機能を盛り込んだOffice98を先行してMac上で提供します」とアナウンスをしたのです。その時のパフォーマンスとして、当時マイクロソフトの開発者が来ていたTシャツ(MacOSのロゴと、マイクロソフトOffceiのロゴがジグソーパズルのパターンで一体化した、コラボレーションをテーマにしたものです。)をスーツの下にネクタイ・Yシャツを着てその下にコッソリ着ていたのです。壇上に上がった私はお祝いの言葉の後、ジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを放り投げると、超人ハルクのごとくYシャツを両手でワシ掴み、ビリビリと胸の辺りで裂いてTシャツ姿になったしまいました。そして一言「これが私たちマイクロソフトがMacプラットフォームにコミットする心意気です!!!」とやってしまったものだから..たいへんなことに...関連記事はこちら: http://ascii24.com/news/i/topi/article/1998/08/31/612398-000.html?geta http://air128.ascii24.com/news/i/topi/article/1998/09/04/612483-000.html http://ad.ascii24.com/news/i/topi/article/1998/09/01/612423-000.html その後、アップルの社長原田さんはアップル本社の広報から「フルカワという危険人物は次回の発表に絶対呼ばないように」というキツいお達しがあったそうです。 そしてさらに時は過ぎて2004年のこと、銀座のアップル・ストアにてOffice2004の発表会が開催され、再びお呼びがかかりました。 http://ascii24.com/news/i/topi/article/2004/06/18/650178-000.html http://japan.cnet.com/news/tech/story/0,2000047674,20069340,00.htm その時も「マイクロソフト、アップルと和解か?」なんて書かれたのだけど、私とアップルの関わりは25年以上何も変わっていませんから.. では、ふるかわでした P.S. 昨日のブログでご紹介したF-Shinさまのリンク先が切れていてご迷惑をおかけしました。お詫びして訂正させていただきます。改めてリンク先をここにご紹介いたします。
ポータブルデバイスをどのように活用し豊かな生活を実現するかという、F-shinさまの思想と実践方法には脱帽です。その根底にあるライフスタイルは心に染み入るものです。是非、熟読のほどをお願いします。自分が家で過ごす時間を大事にしたいので、夜放映された番組をフォーマット変換して、自分のiPodにPodCastするとうアプローチは私の想像力を遥かに超えた次世代のライフスタイルであると思いました。それを毎日実践されているところがさらに凄い...きっとアップルの皆さんも感涙ものでありましょう。
11月4日 私のマイコン遍歴、日本のパソコン30年史、その1私がその昔、秋葉原少年だった頃(今のアキバ系とちょっと違うとは思うのだけど、まぁ普通の人から見ると同類項だったのかな?)秋葉原にはアスターインターナショナル、コンピュータLab、若松通商、ビットイン、本田通商、そして新宿のムーンベース、タンディ・ラジオシャック、御苑前のアスターインターナショナル本店などに当時のマイコン少年は毎日たむろしていたのでした。 当時はTK-80、KIM-1、SCAMP、HitachiやL-Kit16などの10万円ほどする、いわゆるワンボードマイコンが全盛期でありました。Altair、IMSAI、SOL-20、Horizon North Star、クロメムコといったS-100バスのコンピュータはテレタイプに紙テープで操作するもので50万から80万円、8インチのフロッピー・ディスクを搭載したものが100万から150万円もする時代でありました。(ご参考までに、大卒初任給は10万円ぐらいの時代のことです。) 当時浪人受験生の私にはワンボードマイコンすら高値の花で、最初に手がけたチップが6502の自作マイコンで、たまたま入手したKIM-1のメンテナンス用IOチップ(その中にシステムROMが書き込まれていた)にTTLとスタティックRAM(2102)で6502マイコンの自作とプログラミングをしていました。その頃、6502を使ったApple1の話が海外から入ってきて、日本にもその後AppleIIが当時の代理店経由で78万円という価格で日本に入ってきました。この頃は既に、私はS-100バスのIMSAI8080というマシンを海外からメールオーダーで取り寄せ組み立ててはパソコンショップで完成品として販売して次なる部品を調達する。手元には納品前のコンピュータがいつも2から3台机の上に並んでいるという状態でありました。アメリカに訪問すると飛行機代は当時東京ロスアンジェルスの往復が8万円から12万円の時代(当時1ドルは180円から240円でした)、コンピュータのキットを2台仕入れて完成した一台を店頭で販売してもらうと、航空券と自分のコンピュータがタダになるという勘定で小遣い稼ぎまくっておりました。 当時のマイコンショップも今から考えると凄い商売をしていたもので、当時のコンピュータはほとんどがリース物件で5年や10年のリースが終了すると、簿価上はタダなのでくず鉄として引き取りに行くのですが、まだ使えるコンピュータだと問題なのでハンマーで叩き壊して証拠のポラロイド写真を撮るのですが..コンピュータではなくハンマーで叩くフリだけしてそのコンピュータは中古市場なりリサイクル部品として秋葉原の店頭や路上販売で提供されていたのでありました。アルバイトでそのようなリース終了物件の引き取りに同行したことがあるのですが、米軍基地から放出されるテレタイプASR33が3000円でそれを綺麗に磨いて調整すると10万円で飛ぶように売れた時代であります。RICOH殿で販売されていたRICOM8というオフコンには入出力装置としてIBMの電動タイプがとてつもない大きさの金属机に埋め込んであり、それを丸ごと引き取って中身の電動タイプを販売すると6万円なりの価格が付くという時代でありました。 当時誕生した米国のパソコンご三家といえば、AppleII、PET、TRS-80というマシンでありまして1977年頃から順次デビューを飾ったのですが、日本のパソコンNECのPC-8001、日立のベーシックマスター、SharpのMZ80Kなどがデビューを飾る前に日本のガレージメーカーが独自に開発したパソコンがあったのです。当時のソード、アイ電子、電算などは独自のマイコンシステムを生産提供していたことは日本のパソコンの歴史に出てくる話ですが、そん隙間を縫って本当のガレージメーカーから「コスモターミナルD」という6809CPUを搭載したパーソナルコンピュータがアスターインターナショナルから販売されていました。これを企画開発した方は吉田雅夫さんという当時の有名人で、「コスモターミナルD」以前にVT1020というCRTターミナル(当時、スタートレックを遊ぶ白黒の80文字x25行の英数字が表示されるモニター+キーボード、CPUは無い)が50万円から100万円する時代に脅威の198,000円という価格でCRTターミナルを発売されていました。ガレージメーカーのことゆえタイプライタ型のキーボードを調達することもできず、TK-80に使っていたクリヤキャップを被せるキーを並べてキーボードを形成し、スペースバーの入手ができなかったので、子供のお弁当に使う箸箱を型にしてエポキシを流し込み、手作りで作成したスペースバーのターミナルを20万円弱で販売しているような時代の産物でありました。その当時、この吉田雅夫さんの工房当時(㈱ソフィアには6809のメインボード、電源、筐体がバラバラの部品で持ち込まれ夜通し半田付け、ネジ止めして月末の納品に間に合わせていました。 それが日本で最初のパソコンと言っても良いでしょう、「コスモターミナルD」でありました。その名前は、当時のアスキー編集長、吉崎氏が宇宙戦艦ヤマトのコスモクリーナーにヒントを得て名づけたという、今では某宗教でも使われている名前と全く同じ背景..という逸話であります。 私もその工房で1977年頃マイコンのイロハを勉強したのでありました。 パソコンを繋ぐことが可能なモニターTVは白黒で10万円、カラーですと30万円もする時代でしたので、サンヨーのカラーTVを購入してきて分解しTVチューナーから出力されるビデオ回路廻りにカッターで切れ目を入れて外部ビデオ入力ピンを準備する(今では黄色いビデオコネクタやS端子は当たり前のことですが、当時はビデオゲームの出力をRFモジュレーションしてTVの2chや空きchに映すというのが普通でありました。)今では数万円で高品位の液晶やCRTベースのモニターが入手できますが、当時の個人ユーザーが手にできる価格の製品はそのような背景で世の中に受け入れられていったのです。 当時大学に入学するべく予備校に通うフリをしながら、そんな人生を送っていたので大学に行っても自分の好きな領域を極めることは出来ないだろうと思っていました。その意思を決意させた一つの事件は、東大生が個人か研究費で買ったか100万はするコンピュータのキットを組み立てたのに動作しないと持ち込まれたコンピュータ..私が拝見、調査すると全ての部品がとても綺麗に瞬間接着剤で固着されており…おいおい、東大で学ぶコンピュータ・サイエンスの学生ってこのレベルのもんかいな?と思い、私は実学の道を歩こうと決意を固めたのでありました。 私自身の記憶が薄らいでいく前に、個人史も含めてパソコン黎明期の話をすこしずつアップしていきたいと思います、ご笑覧ください。 では、ふるかわでした 10月9日 8チャンネルの同時録画を何に使うの?江藤さん、コメントありがとうございます。 今日はコメントに対するお返事ではなく、8チューナーを支える技術とその市場性に関して本文を書いてみました。相変わらずの長文にて失礼...
従来から販売されているVAIO TypeXは、地上波アナログチューナーx6+外付けBSデジタルチューナーを既に実現していました。価格が50万円近辺ということに眼の玉飛び出そうで、個人としては指を銜えて見ていました。MS時代に会社で一台買って評価はしていましたけれど…今は新宿のオフィスのどこかにあるのでしょう。
今回発表のあったVAIO TypeX Livingは、リビングルームコンピューターと定義されるパソコンで、「地上波アナログx2」もしくは「内蔵BSデジタルチューナー+地上波アナログx2」という構成です。このチューナーカードの写真はこちらにチューナー回路に関しては従来のテレビ屋さんではなく、日本のベンチャー企業として成功しているピクセラ(チューナーカードの写真に会社名が写っているし、ニュースレリースも出ているので、ピクセラさんの名前を引用しても良いですよね?)とカナダのViXSのコラボレーションによる成果が大なりであります。結果として日本の市場で要求される3D Y/C分離やゴーストリダクションなどをも完備する製品に仕上がっています。もちろんソニー殿の独自技術は総合的な企画設計や詳細設計に発揮されています。ハードディスクの読み書きパフォーマンスを少しでも向上させるためのシリアルATAへの仕様変更、徹底した放熱設計や静粛性の達成、前述のMotion Realty LEによる高精細画像を実現するハードとソフト技術などなど多くの卓越したエンジニアリングの積み重ねで実現可能となったものです。
VAIO Xビデオステーションは、地上波アナログチューナーx4もしくはx8を装備したハードディスク録画装置兼ホームサーバーで、CPUはSH4、つまり中身はパソコンではありません。単体のAV機器としてテレビに繋いだりもしくはPCと接続してPCで映像を鑑賞したり、DLNAの環境で映像サーバーとして機能するものであります(機能一覧)。この8chのチューナーカードとチューナーモジュールには、SONYの刻印が押してあります。メイン基盤に2個乗っているViXSのMPEG2エンコーダ、XCODE2は低ビットレートでも映像の質が落ちない安定したビデオストリームを生成することができます、8チャンネルのレコーディングはチューナーを実装するというだけではなく、ハードディスクに書き込む際のバスのスループット、ネット経由のPCによる設定ユーティリティ、DLNAサーバーとしての基本機能などなど、ソニー殿の独自技術も活きています。 ちょっと驚いたのは、メインCPUにSH4を搭載しています。(現在はルネサスから提供、元々SHは日立のCPUで、私の中学高校時代の同窓生であるA氏が基本設計したもの..当時から天才で学年1番2番の成績だったからね、私はいつも下から5番以内を..ははっ)、搭載OSはiTRONを改良したものとのこと誰が開発に関わったのかな?
まぁ、技術の詳細はともかくとして、「それを何のために使うの?」という疑問に対しては..
江藤さん、コメントのような録画した2Tbを毎回バックアップしたり丸ごとDVDに焼くというような使い方はしないと想定されているのだと思います。 (もちろん、QuickDVDのようなユーティリティで簡単にDVDに焼くという機能はあるものの)つまり録画予約をして録画内容を再生するということから開放される、ということは日常的に発生するジレンマ、たとえば以下のようなケースから完全に開放されるということです。
多分、どなたでも上記のうち5つくらいは経験があるでしょう?それらを解決するのが多チャンネルの同時録画なのかもしれません。チャンネルを切り替えるという気軽さで時間を自由に切り替えることができれば、予約録画・再生という煩わしさから完全に開放されるのではないでしょうか?
具体的にどのような環境でタイムマシンビューが実行されるかという、ムービーのデモあります。このページのオレンジ色のスタートボタンを押すと、タイムマシンビューという機能の中で何ができるかデモをみることができます。
タイムシフトの概念、つまり過ぎ去った時間を特定のチャンネルだけではなく、8チャンネル1週間分の時間を戻すことができる(チャンネルを絞り込んだ場合には、3週間というオプションもあり)、これをタイムマシンビューと呼んでいます。 基本的な考え方としては、全てを記録するバックアップするという前提では無く、観なかったモノはドンドン捨てていくという発想なのでしょう。人間はミスもおかしますし、ワガママですから今は関心が無くても人の話題で「昨日のドラマ面白かったね?」と言われると急に観たくなったりするものです。録画をすることを忘れる、もしくは今日は必ず8時にウチに帰ってこの番組を観るんだと、思っていても自宅にたどり着いたときは8時10分だったなんてことありますよね。 お手洗いに行っているほんの数分の間にサッカーのゴールが決まったり、他のチャンネルを見ている間にホームランなんてこと、ありませんか? それらを開放してくれるのが、マルチチャンネルのレコーディングなのでしょう。
この技術は、個人利用以外にもコンサートの撮影現場などでカメラは12台あるのに録画機材はテープベースの2台しかないので現場でスイッチャーを使って12カメのうち映像2系統だけ録画する代わりに12映像全て録画して、後で編集するということにも今後活用されそうです。街角やビル内の監視カメラや河川の氾濫、高速道路のGシステムなど現行では1画面を多分割して記録しているようなケースでもマルチプル・チャンネルの同時録画、人間の顔を自動抽出、画像検索を駆使して複数のビデオストリームから特定の人物を捕捉するなんてことが現在の技術で出来てしまいます。 会議の内容をマルチプルカメラで同時に録画し、プレゼンの内容、カメラによる撮影、遠隔地からのビデオ参加、手書きで書いたノート、マルチチャンネルの音声を同時に録画することによって会議内容の記録を多次元的に管理することもできるようになるでしょう。たとえば、自分の書いたノートの文字にカーソルを当てるだけで、その文字を書いた時間の先生の講義内容がビデオで再生されるとか..法廷の中や手術室内で発生している全ての事象を記録して必要に応じて説明責任を果たすとか...映像のマルチプルチャンネル録画は今後著作権管理、コピーワンスの問題、放送映像業界の権利処理・ビジネスモデル、プライバシー、社会通念、文化の領域全てを通して、あるコンセンサスが確立したときには.大きな変革をもたらすと思っています。
録画する場所やバックアップの問題に関しては、ローカルの2Tbハードディスクに録画されるのではなく、ホテル内のキャッシュ・サーバーや地域のサーバー、ケーブルTV局やブロードバンドの中継局がその役目を果たすことになるのだと思います。現在は、プロバイダに置かれたメールやホームページ、はたまたデジカメ・データのバックアップストレージが放送映像のキャッシュやバックアップストレージになり視聴者が時間から開放された環境の中でテレビもしくはポータブル・デバイスでいつでも再生できるようにするには、技術的なチャレンジより法律の問題、社会的なコンセンサス、認証課金の問題などが山積みであります。 しかしながら、技術的にはすでに完成の域に達しているそれもViXS、ピクセラ、ソニーのような会社が会社の大小に関係なく卓越した技術を持ち寄り、上記1から20に並べたような日常的な問題を解決してくれるということはとても素晴らしいことだと思います。
今から10年ほど前にVODサーバーのTigerというシステムでビデオ・オン・デマンドの実験をした時には90MHzのクロックの386サーバーに320Gbのディスクを実装した1台300万円もするマシンを最低4台並べてやっと実現できていたことが20万円ほどで出来るようになったのは感慨深いものがあります。
そこに市場はあるのか、お客さんはいるのか?という疑問に対して.. 「時刻の設定ができないので、時間が00:00のまま点滅している状態でビデオデッキを使っている」貴方と私のためにそれなりの需要はあるのかもしれませんよ!!
では、ふるかわでした P.S. 新ちゃん、久しぶりにコメントください!! そちらのブログもそろそろ更新の時期でしょ!! 10月7日 飛び膝蹴り、2度不発に終わるCEATEC Japan 2005が開催中です。あらゆる分野の技術動向(通信、放送、セミコンダクタ、基礎技術、応用機器、サービスなど)とメーカー各社のビジョンと新製品を肌で感じるまたとない機会です。既に、オフィシャルホームページのWebマガジンや数々のメディアでCEATEC Japan 2005のレポートは紹介されています(ASCII24、インプレス、デジタルARENA、日経BP Tech-On、日経エレ、PCWEB、Digital Freak)。10月8日まで開催なので、まだ訪問されていない方はラストチャンスですよ!
私は、毎年ブースの端から端まで自分で歩いて新しいネタを仕込むことを楽しみにしていました。 今年も、10月4日に訪問して、丸一日駆け足で見てきました。 事前登録をすると自分でバーコード印刷した紙を会場入口でスキャンするだけで入場証を発行してもらえます。 登録するには、仕事のジャンルと会社名が必要なのだけど、「自由人?無職?」「ブロガー」で登録できるのやら?結局胸のバッジには、「コンサルタント」 沢山ある選択肢の中から選んだだけだけど、会社名の欄に「ブロガー」と書いたら、そのまま「コンサルタント、ブロガー、古川享」と印刷されたバッジが印刷されました。
会場を歩いていると昔からお付き合いのある沢山の方に声をかけていただき、「充電中なのに、ここで何してるのですか?」「GQ見ましたよ!」「次の就職先は、実は決まっているのでしょう?」「事業計画書を見せたら出資してくれますか?」「あれ、日本にいるんだ?」「どこの会社のコンサルタントなんですか?」「ブログ見てますよ」などなど皆さん様々な反応でありました。ある重厚長大な会社「H社」に永年お勤めのW氏、私の顔を見るやいきなり駆け寄ってきて、何を言うかと思ったら「やぁ、MS辞めたんですってね、きっと営業成績が悪くてクビになったんだろうって噂をしてましたよ」とだけ言っては去っていかれたのですが..後ろから飛び膝蹴りでもくらわしてやろうかと一瞬思ったのですが...そんなことで「元MSの古川、CEATEC会場で暴行乱闘」なんて週刊誌ネタを提供することもあるまい、とグッと堪えて各ブースを廻っておりました。この手のオヤジは一体何が目的でそんなことワザワザ私に喋るのでしょうねぇ?「自分は国立大学出のエリートだから、仕事で何の成果も挙げていなくても重厚長大なH社は私を定年まで囲ってくれるのだ」とでも自慢したいのかな、と思ってみたり...謎
午後には、ハワード・ストリンガー氏の基調講演を拝聴しました。ジャーナリストやアナリスト向けのソニーグループ 中期経営方針(2005年度~2007年度) に続く初めての一般向けスピーチということで、私も早くから事前登録をして会場の前で入場待ちの列に並んでおりました。 そこに、マイクロソフト本社の中堅どころホーム・コンシューマ担当の人間がすれ違い「やぁサム、どうだい引退生活は?何でこんなところに並んでいるの? SONYの基調講演?そんなもの聴く価値ないんじゃない?」と声をかけてきました。人前であるので、これまたグッと堪えたのですが、「そんな考え方するのは、お前こそバカでないのかい、CETATECで基調講演のチャンスもマイクロソフトには与えてもらえずに、コンシューマ分野でマイクロソフトのプレゼンスがこれまで落ちているのは物見遊山で日本に来ているお前らの不遜な態度に日本の業界が辟易しているからだぞ、だいたいHD DVDの発表の手順は何だ? 日本中の東芝以外の会社全てと政府筋はカンカンに怒っているぞ、マイクロソフトの本性みたりってな!!!」と、「この時代に、SONY殿がどのように再生への道を歩もうとしているのか、自分たちこそ謙虚な姿勢で学ぶ必要があるのではないかい」と思ったのだけど、傲慢なこの手の中堅マネージャーの振る舞いに説教をたれても何の効果もないので、歩き去る背中にこれまた飛び膝蹴りでも食らわしたるかと思いながら冷静に列に並んでいたのでした。
ハワード・ストリンガー氏の基調講演の内容は、私としては微妙..であります。 スピーチの概要は、9月22日の中期経営方針で語られた内容から、1万人の早期退職・解雇のプランを抜いた内容でした。、SONY殿が持っている輝かしい技術に対する愛情や畏敬の念、それを活かして再生のバネにするという気概が感じられなかったのは、私だけではありますまい。 近くの席に座っておられた麻倉怜士さんのコラムに書いておられたことを一瞬思い出してしまいました。 ストリンガーさんのスピーチの中で、王貞治選手もそれまでの打法を1本足打法に変えて本塁打記録を達成することができたなどという逸話を引用されていましたが、その1本足打法に相当することが何なのか、お手並み拝見としましょう。 それでも、会場内ではフルHD(1920x1080)のBRAVIAシリーズ、CELLコンピューティングの実演(本当に目の玉飛び出すほどビックリしました。)やXビデオステーションなど眼を見張るSONY殿の素晴らしい展示もありましたが..確かに、面白いことと、売上げ・利益に貢献できるということは違うのは判りますが、CEATECのような現行商品を販促する場ではなく、未来の技術と将来の会社としてのビジョンを語る場に相応しい内容であったかは疑問が残ります。 それは、まるでモーターショウで明日の話をせずに、今日の利益回復のみを自動車会社のトップがするような話に思えます。
もっと危機的な状況は、CEATECにおけるマイクロソフトのプレゼンスだと感じました。マイクロソフトのコンシューマ製品は今日の話にも明日の話にも全く登場しないという状況の中で、家電製品、ホーム市場でのマイクロソフトはその存在がゼロというのがCEATECにおける状況であります。 それとは逆に、インテル殿のプレゼンスとリーダーシップは確実に増してきています。それは、特別講演(その1、その2)の内容やDLNAグループやDTCP-IPの進捗にも顕著です。
今週のブログにて、放送・通信の変革期に対する思い、新しいコンピュータ環境やサービスの登場について、会場で見つけた斬新な日本の技術などを少しずつ紹介していきたいと思います。
では、ふるかわでした P.S. 昨日のフライトでシアトルに来ています。 成田空港で「古川さんですよね、ブログいつも見ています。そのうちコメント入れても良いですか?」と声をかけてくれた、さわやかな青年に出会って..CEATEC会場での飛び蹴り未遂で溜まっていたフラストレーションが一挙に解消されました。サンキュです。コメント待っています。 9月30日 ショックウェィブの産まれた背景ショックウェィブはマクロメディアのフラッシュの元になったWeb用ツールです。六本木のある中華料理店にて、当時マクロメディアの社長をやっていた手嶋さんと、米国本社から来日していたマクロメディアの役員さんたちと一緒にお食事をしました。 その当時は未だインターネットが市民権を得るには至っておらず、CD-ROMを中心とした電子出版や、ゲームマシンとして、スーパーファミコン、プレステ1、Dreamcastそして松下の3DOが華々しくデビューを飾っていた時代のことです。3DOのデビューが1994年3月、プレイステーションの出荷が同年11月のことですから、それは1994年の4月から10月のどこかであったはずです。 マクロメディアの本社からきた連中は3DO用の開発ツールとしてCD-ROMベースのマルチメディア・コンテンツ編集ツールを松下電器産業にライセンス、納入したことでかなり自信満々の状態でありました。 そのビジネスに続き、SME殿やSEGA殿に同種のツールをライセンスするという構想に対して何か助言が欲しいという話になりました。
そこで私が提案した内容は、インターネット上で作成するHTMLベースのコンテンツをより魅力的にするためにアニメーション・ツールだけではなく、時間の流れを設計、記述できるツールを作成する。 オブジェクトをHTML上に記述してアクセス時に必要なランタイム・モジュールを実行時に自動的にダウンロードするという構想でした。そのアイディアの原点になったのは、アスキーにも掲載された、中島聡氏が開発した「GAMEコンパイラ」や、ハイパーテキストの概念などを背景を組み合わせたアイディアで、ゼロから突然思いついた独創的なアイディアというレベルのものではなかったのですが、重要なポイントは閉じた世界のCD-ROM用マルチメディア・ツールではなく、オープンなネットワーク上で配布されランタイム・モジュールをダイナミックにローディングし実行するという提案でした。 その当時、私はインターネットの将来に大きな可能性を見出していて社内の色々な部門に説得をしていたのですが、本格的にインターネットに対応することを決意する以前のマイクロソフト社内では、インターネットのことを口にすると「何の利益も産まないモノに会社の資源を投入して、会社を潰す気か !!!」と本社役員に罵倒され、それこそみんな隠れキリシタンのような生活を送っていましたものです。 その当時インターネットによるメール機能やホームページの閲覧以外に、従来の開発言語で生成されるオブジェクトや、ハイパーテキスト・ツール、アニメーション作成ツールなどを組み合わせてインターネット向けのコンテンツ作成ツールを実現したいと考えていました。
そんな構想を、マクロメディアの連中に投げかけてみたら妙に話がエキサイティングして、それは面白いと大いに盛り上がって、その結果Shockwaveが産まれることになりました。 その後、ShockwaveはFlashへと発展して最後にはマクロメディアが会社ごとアドビの傘下になるという展開をみせました。 そのスタート地点でのあるキッカケを私も一緒に創ったということを懐かしく思い出します。 併せて、手嶋さんの手腕で日本のクリエィターのエネルギーを結集し世界で通用する人材を日本からデビューさせ、送り出してきたことがshockwaveとFlashの真の成功要因であったと敬服しています。 マイクロソフトもクリエィター向けのツールを展開しようとしているみたいですね。 単にプロダクツを出荷するだけではなく、どのような時代背景に的を絞り、どのような方々の支援を得ながら成功に導くか...マクロメディアやアドビの歴史から学ぶことも多いのではと思って次第です。
では、ふるかわでした 9月22日 最近の検索エンジンデジタルハイビジョンの最新動向を調べているときに、Google検索にて1920x1080と入力したところ、検索結果の一番上に、「 1920 x 1080 = 2 073 600 」と表示されました。 「んっ、ひょっとしたら」と思いGoogle検索の同じフィールドに「3+4」とか「123+345x6」とか入力したらそれぞれ電卓のような計算結果が出るではありませんか..ふーん、最近の検索はあらゆる分野の機能競争と検索結果が熾烈な戦いになっているのだな、と他の特殊機能を調べていみました。
たとえば、イメージ検索のページから検索キーに「古川享」と入力したり、「ALPINA B12」を試したり、キーワードで検索した結果イメージが表示される感覚を楽しんでみました。 それ以外にも「乗り換え 新宿 茅ヶ崎」とか「英和 integrity」なんて使い方もできるのだと知りました。 20年以上前に、かな漢字変換のインターフェィスの入力フィールドから漢字の組み合わせを選ぶだけではなく、自由検索で社内の営業データをデータベースから引き出したり、顧客データベース、個別辞書を引いたりなんて実験をしたことがあるのですが、最近の検索エンジンの発展をみていると今後がさらに楽しみになります。 もうすでに「ヤマト 伝票番号12345」で荷物の集配状態を調べたり、「株価 会社名」なんて使い方もできるのですね..
他社のサーチに関しても少し調べてみようかな?
では、ふるかわでした 9月21日 変漢ミス?かな漢字変換のミスで人間の想像力を超えた誤変換に出会い、思わず噴出してしまったなんてことはありませんか? 財団法人 日本漢字能力検定協会という組織が応募している「変漢ミスコンテスト」の本年度一位が発表ありました。そこからリンクの張ってある「これまでのエントリー作品」というのも結構笑わせてくれます。 昔「mitsuyaさんの誤変換の館」というのがあったと記憶しているのだけど、今でもあるのかな?知っている人いたら教えてください。 人間も変換ミスをするもので、糸井重里さん編集の「言いまつがい」は良かったですよね!! 一番のお気に入りは「タカネット、ジャパタ」かな? オンライン版はここね! 自分自身でも、かな漢変換で面白い変換結果に思わず笑ってしまったことがあるのに、事例としてすぐに思い出せるものがないのだけれど、音声認識ではご紹介したい傑作事例があります。 今から2年前のとても大きなコンピュータのイベントで多分WPC2003だったと思うのだけど、私が基調講演をさせていただくことになりました。来場者は1000人以上の大きな会場で最新のパソコン事情とその未来を語るというテーマの講演内容で、仕込みも入念に沢山のデモを準備しておりました。そのなかで、ペンで操作する「タブレットPC」のデモをすることになって、ペンによる操作だけではなく、内蔵のマイクを使って音声認識でワープロ入力をするなんてデモを企画したのでありました。音声認識はその認識効率を上げるために喋る本人が原稿を読み上げて学習をすると正しく認識する確立がグッと上がります。プレゼンの前日に、少しでも学習効果を増やしてみようと約2時間を割いて徹夜の合間に原稿を読み上げ登録していたのでした。 もう夜明け近くで空も白み始めていたころ原稿の読み上げではなく、デモのリハーサルを始めたときに私はマイクに向かって「Windows XP」と喋ったところ、画面には 運動セックスP(ピィー) と認識結果が文字で表示され眠気も吹き飛び、気絶しそうになってしまいました。最後のPは放送禁止用語を隠すPって音かな? もしこの文字が私のプレゼン途中で会場の巨大なスクリーンに表示されていたら、きっと私の人生はその時点で終わっていたかもしれない、と思いました。それ以降、私は音声認識のデモを人前でしていません。 この音声認識ソフトはWindows XPにはオマケで全てに添付されているものなのだけど、まだまだ改良の余地ありですねぇ… では、ふるかわでした 7月26日 台風接近ゆえに台風に関する最新情報は以下に、
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では、ふるかわでした
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