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8 novembre アップルと私私がアップルに関する話をしたりMacやiPodの話をすると、「古川さんは実は隠れMacファンだったのでしょ?」とか「マイクロソフトを辞めてから、Mac使い始めたのですか?」はたまた「MacフリークがバレてMSを首になったのではないか?」とまで色々なことを直接・間接的に言ってくれる人がいます。思わず笑ってしまうケースは、「私はアップルを愛しているので、マイクロソフトの手先である貴方が嫌いです。」とわざわざ私に近づいてそれだけ言い捨てて去って行く人に何人も遭遇しました。こういうステレオタイプの人にマイクロソフトが私がアップルの成功を願ってなにを提供してきたかを一度まとめてお話しておきましょう。
私のスタンスは、良いものは良いとして自分も使う、人にも勧めるという性格ですから、アップルの提供する世界と無縁であったことは一度もなく、むしろMacの文化を広めるために人並み以上の貢献をしてきたのではないかとすら思います。それはマイクロソフトのスタンスも同様で、Mac以前のAppleIIの時代に遡ってマイクロソフトはアップル向けの数々の製品を出してきました。まず、AppleIIに標準搭載された6KROM版BASICは(注:Dr.Spockさまのコメントにより修正させていただきます。6K ROM版整数BASICはApple社によるもの、後に出荷された10Kb拡張浮動小数点BASICが)マイクロソフト製品でありました。マイクロソフトが最初に出したゲームソフト・タイトルはAppleII用の「オリンピック・デカメロン」(注:seiji-kさまのコメントにより修正させていただきます。デカスロン:10種競技が正しいタイトルです)というスポーツゲームでした。AppleII用に他社から出荷された世界初の表計算ソフトVisiCalcは大きな衝撃を持って市場に受け入れられましたが、その限界は英数文字が40文字x20行という画面サイズでした。その限界を打ち破るAppleII用の製品として、マイクロソフトから「AppleII Z80 Soft Card」という製品が出荷され、AppleIIのIOバスにZ80CPUと9つのDRAM(8本は16Kb増設用、本体の16KbRAMチップを1本抜き去りそこに16ピンフラットケーブルを刺す、抜いた1本のRAMチップはZ80カードに9本目のRAMとして挿入される)、80x25行のディスプレイを表示可能で、8ビットのOSであるCP/M80、Microsoft BASICが搭載されていました。 この結果8ビットのAppleIIを利用してFortranやCOBOLすら運用可能になったのです。そして80x25文字のディスプレイとCP/Mの環境を利用してdBaseIIなどのデータベースやMultiMateやWordStarなどのワープロソフトなども実行可能となりました。8ビットの時代にほぼ標準としての地位を固めたCP/M80を一番沢山単一機種のために出荷した会社は当時のマイクロソフトで、そのターゲットマシンはAppleIIでありました。 マッキントッシュのデビューに当たっては、スティーブ・ジョブスから試作機を供与されMacのデビュー時にアプリケーションを提供する1stパーティと呼ばれる第1陣のソフトウェア会社として3社(マイクロソフト、ロータス・デベロップメント、3社目はアシュトン・テートだったかピーチ・ツリーだったか)の社長とスティーブ・ジョブスが色違いの同じポロシャツを着てデビュー広告を飾ったものでした。マイクロソフトが最初に出したMac用ソフトウェアは、BASIC,Multiplan、そしてChartでありました。その後ExcelのデビューによってMacのカルチャーを100%活かした最初のアプリケーション・ソフトとした広く市場に認知され、Excelを使いたいためにMacを購入するという状況をも生んだのでありました。 私はその当時1984年から1986年まで、ある理由で没交渉となりマイクロソフト以外のソフトウェア・ビジネスを担当するというミッションを持っておりました。その頃㈱アスキーのソフトウェア開発本部という立場で、UNIXの日本語化、informix、CANDY、TeXなどのアプリケーション、そしてJust Systemの発掘などを手がけておりました。とりわけ、UNIXの日本語化はバークレィ版3.7および4.2BSDの時代の中心的な役割をUNIX市場で打ちたて、DECの漢字ULTRIXとして、そしてSONY殿のNeWSワークステーション上のUNIXは、アスキーがVAX用日本語化BSD版UNIXのマスターテープを提供し、当時SONYに勤めておられた手塚さんがそれを68K版に移植され市場にNeWS版UNIXとしてデビューを飾りました。当時VAX11/780版日本語化されたUNIXは、慶應大學、東大、東工大、松下の中央研究所、KDD研究所などに次々と納入され、その後の日本語化されたUNIXの基礎として幅広く採用されました。日本語化の努力はBSD版でソース提供されましたので、現在に至るまでその日本語化構造は脈々と生き続けているのではないかと想像しています。皆さん、ご存知のようにMacOSの中身は現在BSD版をベースにしたUNIXそのものですから…私はMacOSの中身として継承されているMacOS Xのある部分は私が20年前に開発に関わったものが今でも使われているのではないかと、自負するものです。その当時、私はプログラマーとしても開発のリーダーとしてもポンコツでしたので、実際の作業は当時アスキーの社員であった現在IIJの会長である深瀬弘恭氏を中心に、大野 俊治氏などが実際の開発作業に関わっておられました。私はそれを統括するソフトウエァ開発本部長で、開発と事業総責任者でありました。 1986年マイクロソフト㈱を創業した段階では、Mac関連のプロダクツはキヤノン販売㈱殿が日本での総代理権を持っておりましたが、日本でのアプリケーション提供と責任あるサポート体制を整えて1年以内にMac関連の取り扱いをマイクロソフト㈱で取り扱うことに移行しました。話は前後しますが、1986年初頭には、マイクロソフトの社長として私が採用される前後に日本のアップル・コンピュータ㈱の社長にならないかとの誘いがあり、アップル本社クーパチーノの人事担当者その他エクゼクティブと入社面接をしたことがあります。その時点では、マイクロソフトから完全に絶縁状態でアスキーとマイクロソフトの代理店解消プロセスをアスキーの立場から一山超えた私は、アップルの社長というお誘いにチョット心が動き話を進めておりました。私の要求は1点だけ、Macのプラットフォームをそのハード設計OS共に第三者にライセンスして、Macをアップルからだけではなく日本のメーカー(具体的にはSONY殿)を第一ターゲットにパートナー戦略の企画書を持って交渉にあたりました。私の夢は「アップルからクリーム色のMacをSONYから銀色のMacを出荷して、Windowsに対抗する」という企画だったのですが、あっさり撃沈。 当時はスティーブジョブスもアップルを去ってスカーリー社長の指揮下に、面倒なことを要求するヤツは要らない、とにかく売ることだけ考えろ、という雰囲気で話は立ち消えとなってしまいました。その数年後にアップルはMacの生産ライセンスをパイオニアなど数社に付与されるのですが、結果はおもわしくありませんでした。その頃、SONYでMSXの幕引きを担当されていたのが出井さんで、やはりアップル本社にMacを作らせて欲しいと交渉をされていたそうです。その後、出井さんがSONYの社長になられて以降のカジュアルな会話の中で出井さん曰く「古川さん、あの時点で貴方がアップルの社長をやっていてSONYがMacを提供していたら、今のVAIOシリーズの中身はMacだったのにねぇ」とお話をしたものです。その頃、現在アップル社長の前刀さんはSONYにお勤めだったそうです.. その後、時は過ぎ永年お付き合いのあった原田さんが社長となり、MacExpoなどの対談にもお声がかかるようになりました。1998年のiMacの記者発表はスティーブ・ジョブス氏の完全復帰であり、新生Macのデビューであり、原田さんの日本における代理店政策・マーケティング策の刷新など大きなパラダイムシフトとして位置づけられていました。その時点では、ジャーナリストや一般ユーザーの方の「アップル対マイクロソフトの対決の図式」は皆さんの頭に染み渡っており、私がiMacの発表会にゲストスピーカーとして壇上に上がった時にはドヨメキの声が聞こえたものでありました。ひょっとして「マイクロソフトの古川が消火器でも持ってiMacの発表会をブチ壊しにきたのではないか?」との声すら聞こえる中で、私は「iMacのデビューに関するお祝いの言葉と同時に、当時Windows版はOffice95を継続していたときに、次世代の機能を盛り込んだOffice98を先行してMac上で提供します」とアナウンスをしたのです。その時のパフォーマンスとして、当時マイクロソフトの開発者が来ていたTシャツ(MacOSのロゴと、マイクロソフトOffceiのロゴがジグソーパズルのパターンで一体化した、コラボレーションをテーマにしたものです。)をスーツの下にネクタイ・Yシャツを着てその下にコッソリ着ていたのです。壇上に上がった私はお祝いの言葉の後、ジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを放り投げると、超人ハルクのごとくYシャツを両手でワシ掴み、ビリビリと胸の辺りで裂いてTシャツ姿になったしまいました。そして一言「これが私たちマイクロソフトがMacプラットフォームにコミットする心意気です!!!」とやってしまったものだから..たいへんなことに...関連記事はこちら: http://ascii24.com/news/i/topi/article/1998/08/31/612398-000.html?geta http://air128.ascii24.com/news/i/topi/article/1998/09/04/612483-000.html http://ad.ascii24.com/news/i/topi/article/1998/09/01/612423-000.html その後、アップルの社長原田さんはアップル本社の広報から「フルカワという危険人物は次回の発表に絶対呼ばないように」というキツいお達しがあったそうです。 そしてさらに時は過ぎて2004年のこと、銀座のアップル・ストアにてOffice2004の発表会が開催され、再びお呼びがかかりました。 http://ascii24.com/news/i/topi/article/2004/06/18/650178-000.html http://japan.cnet.com/news/tech/story/0,2000047674,20069340,00.htm その時も「マイクロソフト、アップルと和解か?」なんて書かれたのだけど、私とアップルの関わりは25年以上何も変わっていませんから.. では、ふるかわでした P.S. 昨日のブログでご紹介したF-Shinさまのリンク先が切れていてご迷惑をおかけしました。お詫びして訂正させていただきます。改めてリンク先をここにご紹介いたします。
ポータブルデバイスをどのように活用し豊かな生活を実現するかという、F-shinさまの思想と実践方法には脱帽です。その根底にあるライフスタイルは心に染み入るものです。是非、熟読のほどをお願いします。自分が家で過ごす時間を大事にしたいので、夜放映された番組をフォーマット変換して、自分のiPodにPodCastするとうアプローチは私の想像力を遥かに超えた次世代のライフスタイルであると思いました。それを毎日実践されているところがさらに凄い...きっとアップルの皆さんも感涙ものでありましょう。
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享(サム本人)
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